2018年9月2日日曜日

藤田嗣治展

東京都美術館で開催中の「藤田嗣治展」を見た。没後50周年を記念しての大回顧展。確かに藤田の作品はあちこちの美術館で目にするが、これほど多くの作品を体系立てて鑑賞する機会はこれまでなかった。

藤田と言えば「乳白色」が代名詞。この展覧会でも1920年代の肖像画を集めた「『乳白色の裸婦』の時代」というコーナーが一つの山場となっているが、彼の人生全体の文脈の中ではそれは一つの時代であり、むしろ、各時代の彼の境遇や社会情勢などを重ねながら全体を鑑賞すると、乳白色以上のものが印象に残る。

特に切なく印象に残ったのは、キービジュアルになっている「カフェ」という作品。エコール・ド・パリの寵児として華やかな時代を過ごした藤田は、戦争でパリから日本に戻り、戦時中は「アッツ島玉砕」などのいわゆる戦争画を描いた。そのせいで終戦後、戦争協力者よばわりされ、日本を離れる。すぐにもフランスに戻りたかったが入国許可がなかなか下りず、しばしニューヨークに滞在する。そのときに描いたのがこの「カフェ」。すぐ目の前にある風景を描いているようだが、そうではなく、文化も風景も言語も違うアメリカの地で、パリの記憶を呼び起こしながら描いたのだろう。故郷に対する「郷愁」とは少し違う、過ぎてしまった時代や、戦争に巻き込まれる前の自分、遠く海を隔てたところにある美意識などに対する追憶が背景にある気がした。

キャラクターとの質感のギャップがすごい…

一方、1930年代の南米時代の作品は、全く藤田らしくなく、毒々しい色使いで描かれている。他の鑑賞客が「これ、全然良くないわよね。出さなきゃいいのに。」と話していたが、絵にサインもしていないことから、作風が変わったのではなく敢えてキッチュな作品を描いていたと思われ、それがまた、藤田の守備範囲の広さと柔軟性を示していて興味深い。

藤田は触感や質感を描くのにもすごく長けていた。猫などの動物は見ているだけで、柔らかさや、毛並みに沿って撫でたときのつやつやした手触りが思い出せる。

もう一つ印象に残ったのは「機械の時代(アージュ・メカニック)」という1958年の作品。今から60年前の子供たちが、当時の最先端の機器で遊んでいる様子を描いたもので、それぞれダイヤル式の電話、掃除機、ミシン、飛行機、電車などなどを手にしている。
(絵はこちらで見られます http://parismuseescollections.paris.fr/fr/musee-d-art-moderne/oeuvres/age-mecanique#infos-principales
当時としてはかなり未来的な絵だったのではないか。今見ても、不気味なくらい未来的。タイトルにある「機械」は当然、子供たちが手にしている道具だったはずだが、この無表情な子供たちを見ていると、「え?そっち?」と思えてくる。AIが道具を手にして遊ぶ未来図だろうか…。

この回顧展は東京、京都を巡回予定。必見の展覧会だと思う。