2013年5月19日日曜日

永久の紙メディア?

パリのサン・ジェルマン通りに、ルイ・ヴィトンが昨年12月から1年間の期間限定でオープンした「キャビネ・デクリチュール(Cabinet d'Ecriture)」を訪れてみた。ここには「書く」ための商品が集められており、万年筆、様々なインク、紙、手帳などが並ぶ。携帯用ライティング・デスクを内蔵した昔のトランクや、ペンやインクを収納する持ち運びケースなど、旅先で書くことがいかに重要だったかを示す品も展示されている。

普段、手書きでものを書くことが減っている人は多いと思う。

以前、私は旅行に行くと、家族や友人に必ず絵ハガキを送った。郵便と固定電話しか通信手段がなかったし、ひとりひとりに絵ハガキを選んで買って、書くのも楽しみのひとつだった。私も人から旅先の絵はがきを受け取ることも少なからずあった。今はメールがあるし、絵ハガキを書くことも、受け取ることもなくなった。

にもかかわらず、なぜか絵ハガキの市場は縮小している様子がない。世界中どこの観光地に行っても、どの土産店にも必ず絵ハガキはあるし、これ以上の万国共通アイテムはない。店先に並ぶ絵ハガキは古びてはいないので、それなりに売れて回転しているらしい。観光地に限らず美術館のショップでも、常に絵ハガキは欠かせないグッズとなっている。

そんなに多くの人々が絵ハガキを書くために買っているとは思えない。飾るため、見るために買うのはわかる。でも、だったら裏は白紙でいいはずだけど、たいていは切手を張る欄や宛名を書く罫線が入ってる。

メールやデジカメ、デジタルフォトフレームの出現にも全く動じず、且つ、もはやハガキとしての本来の用途では使われていないのに、昔の形を維持し愛され続けている絵ハガキって、いったい何なんだろう?

デジタル化で世界中の新聞社が広告料や購読料の売り上げを減らし、書籍の電子化が進む中、絵ハガキは不動の地位を保つ不滅の紙メディアとして残るのかもしれない・・・と思う。

パリのミュージアム・ナイト

5月18日の夜はパリ中がアート鑑賞モード。

この日は「国際博物館の日」。ヨーロッパでは4,000もの美術館・博物館が夜間に無料開放されるミュージアム・ナイト(La Nuit des Musées)が行われる。パリでも多くの美術館がこのイベントに参加し、トークやコンサートなど特別プログラムを用意して人々を迎えるところもあった。

グラン・パレで開催中の「Dynamo」展にも、夕方から降り始めた雨にも関わらず長蛇の列ができていた。光や動き、空間やビジョンをテーマにした、20世紀初めのアレクサンンダー・コールダーから、ジェームズ・タレルやアニッシュ・カプーアなどコンテンポラリーまで、様々なアーティストの作品を集めた企画展。美しいもの、体験型のもの、ただまぶしいもの、と色々だが、幅広い世代が楽しめる。(7月22日まで。)

多くの人が集まるのは無料だからということだけでなく、夜のミュージアムには、なんだかちょっとわくわくさせる要素があるのだと思う。

印象派たちの光と色~パリ マルモッタン・モネ美術館

今回の印象派の旅の締めくくりには、クロード・モネの「印象・日の出」を外してほかにないと考え、パリ16区のマルモッタン・モネ美術館を訪れた。ブローニュの森に近く、他の観光地からは離れた場所にある。

同美術館は世界最大のモネの作品コレクションを保有している。もともとはフランス第一帝政時代の美術品が中心だったが、1957年に印象派の芸術家たちと交流があった医師のコレクションから、モネの「印象・日の出」を含む多数の印象派作品の寄贈を受け、さらに1966年にモネの息子から父親の作品群を寄贈されてからは、モネの美術館として知られるようになった。今は1階のフロアの約半分がベルト・モリゾを中心とする印象派コレクションの展示、そしてあとの半分が、モネ作品だけを集めた展示スペースとなっている。

手前の大きなフロアには、「睡蓮」シリーズなどジヴェルニー時代を中心に比較的大型の作品が並ぶ。モネらしいたくさんの色彩で描かれた自然の風景。

「印象・日の出」は、その奥の別のコーナーにひとつだけ展示してある。(印象派の名前の由来となった芸術的意義を考えてのことか、80年代に盗難にあった教訓を生かしてのことか、わからないが。)

モネにとっても美術史にとっても、印象派の出発点となったこの作品は、それほど大きくなく、その後のモネの作品に多くみられる色彩のインパクトはない。手前に数隻の小さな船が浮かぶル・アーヴルの穏やかな海と、うっすら赤く染まる空の様子が朝もやの中のようにぼんやりと描かれ、唯一はっきりした輪郭で描かれた朝日が背景の空に上っている。とても静かな印象の作品だった。

3日前に訪れたばかりのル・アーヴルの港には、大型客船やたくさんのボートがあって、この絵の様子を思い浮かべることができなかった。でも実際に絵を見たら、記憶の中のル・アーヴルの風景からたくさんの船が消え、モネが見た通りのル・アーヴルの海が見えたような気がした。モネが得た「印象」が伝わってきたような、そんな感じだった。

現在のル・アーヴル

これで今回の印象派・ポスト印象派めぐりのフランスの旅はひと段落。プロヴァンスからノルマンディー、そしてパリまで、駆け足で廻った9日間だったが、芸術家たちの視点に思いをめぐらせながら、自分の目で見て、感じた風景は、いつもの旅以上に記憶に残った。

アートをめぐる旅、これからも続けよう。

2013年5月18日土曜日

印象派たちの光と色~オーヴェル・シュル・オワーズ ゴッホ最期の70日間

パリ郊外にあるオーヴェル・シュル・オワーズを訪れた。パリから郊外線の電車で約1時間、車なら30~40分の距離にある。5月はアイリスの花があちこちに咲いている。

ここはゴッホが最期の70日間を過ごし80点の作品を描いた土地。ゴッホの絵と実際の風景を見比べられるパネルが町の20か所以上にある。印象派の同様のパネルはエトルタやル・アーヴルにもあるが、ひとりの芸術家がひとつの町にこれほど多くのパネルを設置させた例はほかにはないだろう。

セザンヌも2年間滞在し、ピサロやその仲間の印象派画家たちにも愛されたオーヴェル・シュル・オワーズには、印象派に関連があるスポットがいくつかある。17世紀のメディチ家の館・オーヴェル城では、印象派絵画のオーディオビジュアル展示をしている。モネ、ピサロ、ゴッホを含むこの土地にゆかりがある芸術家の作品計500点以上の映像と、模型やオーディオガイドを使って、19世紀のパリおよび当時の印象派の歴史を約1時間のコースで解説している。見学者が部屋に入ると該当するオーディオガイドが自動的に始まる仕組みで、いちいち番号を入力する必要がない。汽車の座席に見立てたシアターでは、車窓を流れる印象派絵画の風景を眺めながら、汽車の誕生が印象派に与えた影響などの話も聞くことができ、普段オーディオガイドをあまり使わない私も結構楽しめた。

ゴッホは、1888年に自身の耳たぶを切り落としアルルの病院に入院した翌年、サン・レミ・ドゥ・プロヴァンスの精神病院に転院し、1年を過ごした。そしてパリにいた弟のテオの勧めもあり、1890年5月にパリから近いオーヴェル・シュル・オワーズに居を移した。

心を許せる医師にも出会えたゴッホは制作に没頭し、オーヴェルのあちこちの風景を描いた。最も有名な作品のひとつは、オルセー美術館にある「オーヴェルの教会」。ゴッホの絵では屋根のオレンジ色が目立ち、教会全体が揺れているような、動きだしそうな感じさえあるが、実際の教会は、日中の光の下で静かにしている。

「カラスのいる麦畑」は、ゴッホと弟のテオが眠る墓地のすぐそばの一面の麦畑で描かれたもの。パリからわずか30分の距離とは思えないほど、静かな田園風景だった。

ゴッホは1890年7月末に胸を銃で撃ち、2日後に37歳で亡くなった。自殺とされているが、プロヴァンスで出会ったガイドさんの話によると、そうではない説もあるらしい。本当に死ぬ気だったら、頭ではなく胸を撃つだろうか?一緒にいた少年たちが両親の銃を持ち出して遊んでいたのが誤って発砲され、ゴッホを撃ってしまったが、ゴッホは少年たちをかばって自分で撃ったと言ったのではないか、という説。

ゴッホが暮らし、息を引き取った部屋も公開されているが、狭い部屋に小さな椅子がぽつんとあるだけで、当時を語るものはない。

ゴッホは、オーヴェル・シュル・オワーズで全霊を込めて絵を描き燃え尽きたのか、それともまだ描き足りないものがあったのか、今となっては真実はわからないが、それが故にオーヴェル・シュル・オワーズは、ゴッホのゆかりの地の中でも、最もゴッホの魂を近くに感じる場所のように思う。





2013年5月17日金曜日

印象派たちの光と色〜パリ オルセー美術館

ル・アーヴルから列車に2時間でパリに到着した。今回の印象派めぐりの旅も終盤。

サン・ラザール駅に着いたときのパリは小雨が降っていたけれど、すぐに止んで晴れ間が出て、かと思えば10分後には本降りになって、また止んでという具合に、山の天気かと思うほど今日のパリの天気は変わりやすい。気温も5月とは思えない低さで、持ってきた春服は使えそうにない。でも春の花は街のあちこちで見られ、本来の季節を思い出させてくれる。

ここまでプロヴァンスとノルマンディーで見てきた印象派のゆかりの地の数々が、実際の作品でどう描かれているかを見るために、いよいよオルセー美術館へ。パリに入る日を木曜日にしたのは、オルセーが夜遅くまで開館している日だから。時間を気にせずゆっくり鑑賞できる。


オルセーは2011年に大改装を終え、展示スペースが一新された。印象派の芸術家の作品を5階に集め、その中で年代別にコーナーを分けていて、とてもわかりやすい展示になったと思う。ポスト印象派に分類されるゴッホは2階に展示されている。

まず、セザンヌの「サント・ヴィクトワール山」(1880年)。エクス・アン・プロヴァンスで見た白い岩の山は、展示されていた絵ではやや赤みがかった色を帯びていた。あの山は、セザンヌに対してはいつも表情を変える存在だったのだと改めて思う。

次にノルマンディーのモネ。パリからの出発点の「サン・ラザール駅」(1877 年)は、蒸気機関車の煙が上がり、今よりホームの数が少ないが、駅舎の形は今も変わっていない。

ルーアン大聖堂」(1892、93年)は連作のうち3作品が並んで展示されている。朝、午前中、そして曇り空の光。全て同じアングルから描かれているが、聖堂も空も、色彩は全く異なる。あのファサードの緻密な細工は、絵では判別がつかないが、それがこの複雑な色を生み出しているのだということは、実際に聖堂を見てきた今ではわかる。



現在のエトルタ
エトルタのモネの絵は2枚あり、ひとつは「エトルタの砂浜」(1883年)。白い崖と海だけを描いた「エトルタの断崖」とは違い、砂浜に置かれた漁船も描かれている。風景だけでなく人々の生活がそこにあったことをうかがわせる。今でもエトルタの浜には、同じように船が並んでいた。もうひとつは、印象派の前の時代に描かれた「エトルタの大きな海」(1865-69年)。同じエトルタの海と崖を描いたものだが、光に溢れるおなじみの画風とは異なり、暗いタッチで、輪郭も荒い。同じ題材でも時代によってこうも作風が違っていたのかと、興味深い発見。また、エトルタはもう一点、ギュスターヴ・クールベの「嵐の後のエトルタの崖」という作品も展示されていた。写実主義で知られるクールベのエトルタは、やはり写実的だった。


ああ、印象派の絵をこれほどわくわくと心躍るように見たことがあったろうか?芸術家たちが描いた土地を旅し、自分の目で絵の風景を見て、歩き、作品の背景に思いを馳せておくことが、こんなにも感情移入のレベルを高めるものかと、改めて実感する。絵を見てからその土地に旅するのも勿論いいが、旅をして、その興奮が覚めないうちに絵を見に行くほうが、鑑賞時の感動レベルは高く、作品への理解も深まる。

充実した気持ちでオルセーを後にした。

次はゴッホの晩年の地、オーヴェル・シュル・オワーズへ。




2013年5月16日木曜日

ル・アーヴルの街並みと聖ジョセフ教会

印象派の芸術家たちが港町としてモチーフにしたル・アーヴルは、現在も港湾都市として栄えているが、世界遺産に登録された街並みも注目に値する。

第二次世界大戦の爆撃で崩壊した街を、「コンクリートの父」と呼ばれる建築家オーギュスト・ペレが、1945年から約20年間かけて再建した街並みは、今も街の中心を成している。

碁盤の目を基本とした通りに沿って、屋根が平らなコンクリートの建物が整然と並ぶ。市庁舎の前の広場や、サン・ロシュ広場という公園には花や緑が美しく植えられ、街に彩りを添えている。



1階が店舗になっている集合住宅も、画一的に見えて、実は少しずつ異なるデザインのディテールが施されている。それは今にも通じる普遍的なバランスを保っており、少しも古さを感じない。日本で戦後の同時期に建てられた集合住宅で、現在まで洗練されたモダニティを保ち続けているものは皆無に等しいことを考えると、ペレの業績はただ凄いと思う。

後から新しく建てられたと思われる建築物も、ペレの建築に倣うようにして、全体の調和が保たれている。ベースの都市計画がしっかりしていると、長期間にわたって受け継がれていくものなのだろう。

この再建プロジェクトで、ペレが最後に手がけ、彼の死後完成した聖ジョセフ教会は、街のどこからでも見える八角形の高さ107メートルの尖塔を持つ。もともとはペレがパリのために計画し、実現されなかったものそうだ。一見、教会としては地味な印象を受ける。扉が開いていたので、ついでに見るくらいの気持ちで入ってみた。すると、予想もしなかった空間にあっけに取られてしまった。

そこは色彩と光に溢れた部屋だった。

宗教画やイコンの類は一切なく(中央に十字架があるが気付かないくらいのさりげなさ)、色とりどりの四角いガラスが組み合わされたステンドグラスから光が差し込み、それはそれは美しくカラフルでファンタジックな空間。これが教会?

もう夕方6時近くだったが、日没まで3時間以上あり日も高く、その光は全てのガラスから差し込んでるように見えた。外観には全く色彩を感じさせないのに、このギャップもペレが仕組んだものなのだろうか。

ここは大戦の空爆で命を落とした人々の鎮魂の意味も込めて建てられている。宗教を超えた癒しの空間とは、こういうものなのかと思った。

一日街歩きで疲れた帰り道も、その教会を出てからは夢見るような感覚で、足取りも軽くなった気がする。私にとってのパワースポットだったのかもしれない。



印象派たちの光と色~ル・アーヴル 印象派誕生の地

ノルマンディー地方の港町、ル・アーヴルは、印象派が生まれた地とされる。「印象派」という呼称の由来となったクロード・モネの「印象・日の出」が描かれたのがここル・アーヴルだったのがその理由。

ル・アーヴルの街中には、エトルタと同じように印象派の画家たちの絵のパネルが4か所にある。うち二つがウジェーヌ・ブーダンで、あとはモネとカミーユ・ピサロ。

ブーダンのパネル
第二次大戦後に再建された街並みが世界遺産に登録されているル・アーヴルだが、印象派の画家たちにとってのル・アーヴルでのモチーフは街ではなく、港だった。

ブーダンやピサロを中心に印象派のコレクションを持つアンドレ・マルロー美術では、様々な芸術家たちのル・アーヴルを見られるが、みな、港として描かれている。現在開催中のピサロの企画展のテーマもやはり「港町」。セーヌ川に面したルーアン、イギリス海峡に面したディエップ、そしてル・アーヴルの3都市に滞在したピサロの作品を都市別に展示している。ピサロはどの港町でも短期間で集中的に多くの点数を描き、同じ風景を天候や光の違いによって描き分けていた。そして満足すると、別のモチーフを求めて他の土地へ移った。また、パネルでは荒れた海を描いていたブーダンは、普段はおだやかなル・アーヴルの海を描くことが多かったのも、同美術館での展示でわかる。

アンドレ・マルロー美術館にはモネの所蔵作品は比較的少ないが、実は「印象・日の出」が描かれた記念すべき場所にある。美術館から道を渡った反対側にそのパネルが設置されている。
モネ「印象・日の出」のパネル
 残念ながら、パネルと海の間には駐車場があり、さらに海には巨大なクルーズ船が停まっていたりするので、モネの絵と同じ風景は臨めないかもしれない。でも、ここからビーチまでの海沿いの道を歩きながら、芸術家たちを惹きつけた港町ル・アーヴルの魅力を探るのもいい。




印象派たちの光と色~エトルタの白い断崖


ノルマンディーの海岸に到着!

朝、ルーアンから列車で1時間弱のル・アーヴルに移動し、そこからバスで約1時間でエトルタにやってきた。

車窓から、一面黄色の花畑があちこちにあるのが目についたので、よく見てみると菜の花だった。プロヴァンスでも同じ風景をを見たので、この時期はフランスで全国的に咲いているのかもしれない。菜種油を採るために栽培されているそうだ。

白くそびえ立つ断崖が特徴的なエトルタは、ウジェーヌ・ブーダンやクロード・モネなどの芸術家たちを魅了した場所として知られる。 

アモン断崖側のパネル

海岸沿いの2か所にモネの絵のパネルがあり、彼が描いた実際の風景と見比べられる。高さ100メートル以上の崖は、海に向かって右がアモン断崖、左がアヴァル断崖と呼ばれ、モネはどちらも描いている。
 
波が荒く遊泳向きではないエトルタの海は、曇り空の下ではグレーだが、日が差すと乳白色が混ざった半透明のエメラルドグリーンのような色になる。柔らかく、優しい色。

アモン断崖もアヴァル断崖も、それぞれ遊歩道が設けられ、崖の上を歩くことができる。私はアーチ型のアヴァル断崖のほうへ。

歩いているうちに空がすっかり晴れ、強い日差しが降り注ぐと、白い岸壁は光を反射して一層白く輝き、その眩しさと、海とのコントラストの美しさは、思わず足を止めずにはいられない。
 
アヴァル断崖側を選んだのは、ここに来る前に丸の内の三菱一号館美術館で開催中の「クラーク・コレクション」展で見た、モネの「エトルタの断崖」の風景がこっちにあると確信したから。そして、まさにその風景を発見!
ここにパネルはないけれど、高さや距離からみても、モネはここで描いていたに違いない。

短い時間の間に、晴れたり曇ったり、にわか雨がパラついたり、変わりやすいエトルタの天気。そのたびに白い断崖と海は違う色を見せてくれた。画家たちにとっては気まぐれなモデルのような存在だったのだろうか、などと想像する。

エトルタでは今、桜も満開だった。東京より1カ月半ほど遅い春が訪れている。



2013年5月15日水曜日

印象派たちの光と色~ルーアン モネの大聖堂

フランス北部・ノルマンディーのルーアンを訪れている。南のアヴィニヨンからTGVに乗り、パリでサン・ラザール駅発の急行に乗りかえて5時間あまりの列車の旅。サン・ラザール駅もクロード・モネが描いたことで知られる。プロヴァンスの青空はパリに近づくにつれどんより曇りがちになり、ノルマンディーに着くころは小雨。5月も半ばだというのに気温は日中でも15度程度で、冬の寒さがまだ残る。フランスは広い。

ルーアンに来た最大の目的は、モネが30点以上も描いたノートルダム大聖堂を見ること。本当は、太陽が出ていればその光の移ろいを観察したかったところだが、晴れる様子はない。

今までモネの絵でしか見たことがなかった聖堂は、カメラのファインダーには全ておさまらないほど高く、大きかった。モネは聖堂の向かいにアトリエを借り、そこから聖堂を写生したらしいが、モネのキャンバスにも聖堂の全体像はおさまり切っていない。それは見たままの姿だったのかもしれない。

モネの絵からは想像していなかったのは、ファサードには実はものすごく細かいディテールが施されていること。その緻密さたるやガウディのサグラダ・ファミリアを思わせる。一部は改修中で覆いがかかっていたが、そんなことが気にならないほど惹きつけられてしまった。

光を映すスクリーン代わりにモネが選んだ聖堂は、ただの平坦な壁とは違い、相当に複雑な光と影を織り成していたであろう建物、というよりむしろ彫刻、だった。だから30点以上描いても飽き足らなかったのかもしれない。

オルセーで絵の実物を見るのが一層楽しみになった。

2013年5月14日火曜日

アヴィニヨンの眺め

アヴィニヨンは中世の名残をそのまま残したような街だと思う。

14世紀に教皇庁が置かれていた時代の栄華を残す教皇宮殿を始め、当時の建築物の一群が「アヴィニヨン歴史地区」として世界遺産に登録されている。

ちなみに、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」はバルセロナの通りの名前に由来するもので、このアヴィニヨンとは関係ない。

城壁に囲まれた街は、それだけでも歴史の重みを感じさせ、外界から隔絶されたようなイメージがあるが、アヴィニヨンは実際に歩いてみてもタイムスリップしたような感じがする。あまり離れていないエクス・アン・プロヴァンスと比べても、エクスはもっと開かれた、青空に抜ける明るさを感じるのに対し、アヴィニヨンはなんだか、中世のフィルターが薄くかかっているような、時間の進み方が違うような、そんな印象を受ける。これは感覚論なので、人によって感じ方は違うと思うけれど。色褪せた外観をそのまま残したたくさんの建築物もアンティークな雰囲気を漂わせている。

アヴィニヨンの見どころとして外せないのは教皇宮殿。外観と内部もさることながら、屋上からの街を一望する眺めは行く価値あり!

もうひとつはアヴィニヨン橋として知られるサン・ベネゼ橋。ローヌ川の途中までしか残っておらず、橋としては機能していないが、晴れていて風がそれほど強くない日なら、ぜひ入場して歩いてみたいスポット。橋と河岸の風景を違った角度から見られる。

雰囲気を味わうなら、ほとんどのお店が閉まっている日曜日がおすすめ。ショッピングに気を取られずに静かな路地を散策できる。

印象派たちの光と色~アルルのゴッホめぐり

アヴィニヨンから日帰りでアルルとその近郊を訪ねた。

アルルはヴィンセント・ヴァン・ゴッホが1888年2月から翌年5月まで滞在し、「ひまわり」の連作など数多くの作品を描いた土地。アヴィニヨンからは車で1時間程度で着く。

プロヴァンスには糸杉が多い。道中、ガイドさんが説明してくれたところによると、糸杉はこの地方特有の強風・ミストラルから作物を守る防風林として植えられ、おかげでプロヴァンスはヨーロッパ有数の豊かな農作物の産地になったそうだ。(しかし、最近ではスペインやイタリアの安価な野菜や果物に押されて農業をやめる家も多く、糸杉だけが作物のない土地に残っていることもある。)

ローマ時代の都市だったアルルには、2000年前の劇場やコロシアムの遺跡が残っている。そんなものが街中にあれば圧倒的な存在感で、他が入る余地はなさそうだが、ゴッホのゆかりの地は大切に守られ、人々が見つけやすい表示がされている。もはやローマ都市としてより、ゴッホの街としてのアイデンティティのほうが強いかもしれない。

まず最初は「夜のカフェテラス」の舞台となったカフェ。絵と見比べられるよう、解説の絵看板がちょうどいい場所に置いてある。アルルの街中のゴッホゆかりの場所には、必ずこういう看板がある。現在のカフェは絵と同じ黄色い壁を維持し(絵では黄色いのは1階だけなのに、3階まで全て黄色くなり)、ちゃっかり「ヴァン・ゴッホのカフェ」をアピールしている。

次は、有名な耳切り落とし事件の後に入院した元・アルル市立病院。今は病院ではなくなっているが、ゴッホファンのため、彼が入院中に描いた中庭が再現されている。中庭の横のショップではゴッホグッズを売っている。


市の中心から離れたところにあるのが、「アルルの跳ね橋」。
今ある橋は、ゴッホが描いた橋そのものではない。その隣にかかっている(写真奥)普通の橋が、もともとゴッホの跳ね橋だったもの。はしけの通行量が減って、開閉式ではない橋に改造した後でゴッホの絵が有名になってしまい、「これは何か置いとかないとまずいだろう」ということになり、アルルの別の場所から同じ橋を移築してきたそう。でも雰囲気はたっぷり。絵になる。



カリエール・ドゥ・ルミエール

さて、ここでちょっと寄り道してレ・ボー・ドゥ・プロヴァンスへ。「カリエール・ドゥ・ルミエール」(光の採石場)というスペクタクルを見学。石灰石の採石場だった場所を利用し、白い大きな石の壁と床をスクリーンにして映像を投影するショー。モネやスーラ、ルノワールなどの名画や、海や宇宙の映像が、音楽とともに展開される。自分を取り囲む映像に最初は圧倒され、次にその中に浮かんでいるような気分になる。3Dなんかよりむしろ感動的かもしれない。印象派の絵ってこういう楽しみ方もあるのか…。

最後はサン・レミ・ドゥ・プロヴァンスへ。ゴッホはアルルの市立病院から、サン・レミにあるサン・ポール・ドゥ・モーゾール修道院の精神病院に自主的に転院した。そして「星月夜」などの作品を描いた。同院には今ではゴッホの銅像が建ち、ゴッホが暮らした部屋が保存・公開されているが、別棟には現在も患者たちが暮らしている。ゴッホが得たインスピレーションを感じるには、アルルの街中よりこっちだと思う。プロヴァンスの田園風景に囲まれ、敷地内の庭も美しく手入れされた病院での生活には、ユートピア的要素があってもおかしくはない。

ゴッホの病室の窓からは、鉄格子越しに緑の田園が見えた。



プロヴァンスのポスト印象派めぐりはここまで。
次はノルマンディーの印象派めぐりです。









2013年5月12日日曜日

エクス・アン・プロヴァンスの新建築

エクス・アン・プロヴァンスには、今年秋以降のオープンに向けて建設中の興味深い建物が二つある。

ひとつはコンセルヴァトワールと呼ばれる文化施設。建築家の隈研吾氏の設計で、建設現場からはその外観は伺い知れないが、囲いに掲示された写真と説明によると、「折り紙アート」をモチーフにしたファサードが特徴的らしい。有名な現代建築物がほとんどないエクスにおいて、これは新たな観光資源として注目されるに違いない。


もうひとつは、そのすぐ隣にオープン予定のホテル・ルネッサンス。これまでインターナショナルチェーンの5つ星ホテルがなかったエクスに満を持して登場。建設中のホテルの中に設けられたモデルゲストルームを見せて頂いた。フランス人の女性デザイナーによる内装は、プロヴァンスの文化をモチーフにしながらとてもモダンでスタイリッシュ。館内施設は室内プールやスパを充実させ、エクスの他のホテルと一線を画すほか、プロヴァンスらしさを表現した庭園もできるとのこと。

また楽しみが増えそうなエクス・アン・プロヴァンス。




印象派たちの光と色~エクス・アン・プロヴァンス ②サント・ヴィクトワール山

ポール・セザンヌはサント・ヴィクトワール山の絵を油彩44枚、水彩43枚、計87枚も描いたそうだ。
そこまで画家を魅了した山はどんなところなのか、実際に行った旅行者のレビューも読んでみると、すこぶる高評価。これは行くしかないでしょう。

エクス・アン・プロヴァンスからバスで40分ほどで、山の北側のヴォーヴェンナーグ(Vauvenargues)という町に着く。短い通りの両側に市役所や郵便局、カフェが並ぶだけの、静かなチャーミングな町。

インフォメーションセンターで、もっとも簡単なルートを聞いてから、黄色でマークされた入口を手がかりに歩き始めた。青空の下、様々な花や木々を眺め、鳥の声を聞きながら歩く。しばらく歩いていると、ハイキングというよりトレッキングと呼ぶのが適切な、岩がちな斜面や細い山道が続くようになる。あれ?これって最も簡単なコース?と思っていると、どうやらいつの間にか中上級コースに入ってしまったらしい。どこで間違ったのか、そもそも最初は合っていたのか、さっぱりわからない。

数年前にスイスのツェルマットでハイキングをしたときも、同じようなことがあった。係りの人に教えてもらった方向に歩いたのに、どこかで逸れたのか思った道とは違うところを歩いていて、結局、予定とは別のところから出てきたことがある。決して方向音痴なほうではないし、その時はひとりではなかったのだが、やはり日本の懇切丁寧な地図や表示に慣れているとこういうことが起こるのかもしれない。簡単なハイキングコースでも、地図とコンパスくらいは持って出かけるべきなのだろう。

さて、間違ったことに気付いたところで、戻るのも気が進まないし、それなりに歩けたので、まあいいや、と、そのまま歩き続けることにした。

サント・ヴィクトワール山は、遠くから見ると白い岩の塊のように見えるが、実際はかなり上のほうまで低木や様々な小さな花々が岩がちな斜面に生えている。上に行くに従い風がすごく強くなり、歩くのもままならないほどだったが、そこから間近に見た白い岩肌の崖は実に迫力があり、神々しい感じすらした。サント・ヴィクトワール山ならではの魅力をやっと見たと思った瞬間だった。ここまで来られて良かった!

今回私はかなり軽装で行ってしまったが、本来はしっかりした靴と装備で臨むのが適切なコース。また岩が多いので、雨上がりで地面が濡れているときはやめたほうがいい。

さて、実際に登ったサント・ヴィクトワール山だが、まだ全景を見ていなかった。セザンヌが好んで写生した場所が、セザンヌのアトリエから更にあるいて15分ほどのところにある。そこには世界各地の美術館に収蔵されている彼のサント・ヴィクトワール山の作品の写真が9枚並び、そこからサント・ヴィクトワール山を遠くに臨むことができる。ここから見るとあの木々も花も見えず、白い岩山に戻っている。でも、それこそがセザンヌを惹きつけた神秘性なのかもしれないと、今は思う。

印象派たちの光と色~エクス・アン・プロヴァンス ①セザンヌめぐり

エクス・アン・プロヴァンスに滞在中。

今回は、フランスツアー企画コンテストで入賞した旅の企画を賞品として提供して頂き、自分で実際に廻ってみるミッション。印象派がテーマなので、印象派が誕生した北のノルマンディーから始める予定だったけれど、列車の運休の関係で南のプロヴァンスからスタートすることに。

マルセイユ空港からバスで30分のエクス・アン・プロヴァンスは、ポスト印象派の巨匠ポール・セザンヌが生まれ、生涯のほとんどを過ごした街。

到着してまず目に入るのは、とにかく青い空!日没の夜9時頃まで雲ひとつない快晴が続いた。この気候には、プロヴァンス地方特有のミストラルと呼ばれる乾燥した風が影響しているらしい。確かに日中も風は強く、空気はからっとしている。 

エクスの中心街は歩いて廻れる大きさで、そこにはセザンヌゆかりの地がたくさん残っている。あちこちにある「セザンヌの風景」という看板もそのルートを示している。セザンヌの生家や家族が暮らした家、洗礼を受けた教会、通った学校などなど30以上。それらは大きく表示があるわけではなく、家には別の人が住んでいたり店になっていたりするので、注意深く見ていないとわからないかもしれない。父の帽子屋も今は銀行になっているが、壁面に描かれた看板が当時の面影を残している。

比較的目立つゆかりの地のひとつは、サン=ジャン・ド・マルタ教会(母の葬儀が行われた)。中に入ると美しい大きなステンドグラスが目に入る。ときどき、カメラのレンズを通したり、サングラスをかけたりすることで、肉眼では見えなかった光が見えることがあるが、ここでもそうで、シャッターを切る瞬間、ガラスを通った光の紫の反射が広がっているのが見え、その美しさにはっとした。

そのすぐ隣にあるのがグラネ美術館。ここはセザンヌが通ったデッサン教室が開かれた場所。今はセザンヌの10作品を展示している。中でも「水浴の女たち」はエクスのアトリエで描かれたものだが、そこに描かれた空の色は、エクスの青すぎるほどの空と比べ、とても柔らかいことに意外な印象を受けた。
 
セザンヌめぐりで外せないのは、街の中心から北に15分ほど歩いたところにあるセザンヌのアトリエ。最もセザンヌらしさを感じられる場所かもしれない。木々に囲まれた家の二階にあるアトリエは、画家が当時使っていた様子をそのまま保存・再現している。実際に入ってみて、セザンヌの絵の中の空がなぜあんなに柔らかかったか、わかった気がした。セザンヌが自身で設計したアトリエの大きなこだわりは、壁一面の大きな窓と、木の板張りの床。木々の間をから差し込む光が、現代のものより厚いガラスを通り、さらに木の床で吸収されながら反射して、とても優しい光になったに違いない。

街中のセザンヌポイントを押さえたら、次はセザンヌが80枚以上描いたサント・ヴィクトワール山へ。






2013年5月1日水曜日

ブリーフ・ガーデン

スリランカのベルワラに滞在中、建築家ジェフリー・バワの別荘、ルヌガンガ(Lunuganga)を見に出かけたのだが、4月14日のスリランカのお正月の週だったため、残念ながらお休み。そこで彼の兄で造園家だったベヴィス・バワ(Bevis Bawa)が作ったブリーフ・ガーデン(Brief Garden)に行くことにした。

ベントータから車で20~30分内陸に行き、ブリーフ・ガーデンに到着。受付はなく、門は閉まっている。ここも休みかと思ったが、門の上にある鐘を鳴らしてしばらく待っていると、チケットの束を手にした係の男性がのんびりと出てきた。

中に入ると、熱帯のジャングルのような庭が続く。一見無秩序なようで、よく見ると竹林や灯篭など、アジア各地のオリエンタリズムが上手に融合された庭園であることに気づく。でもそれはあくまでもさりげなくて、自然の森にいるような錯覚を覚えながら歩く。

アンリ・ルソーの絵画に出てくる空想上のジャングルは、ここなら実在しそうな気がする。

庭園を散策した後、係の人の案内でべヴィス自身が住んでいた家を見学。造園がメインだったべヴィスだが、家も彼自身がデザインしたそうだ。

室内にはべヴィス自身の作品も含め、数々のアートやオブジェが飾られているが、最も目を引くのは友人でオーストラリア人の画家が描いたリビングの大きな壁画。スリランカの人々の生活を表現したものらしいが、仏画のような、絵本の挿絵のような、不思議なタッチ。

ここは1954年のハリウッド映画「巨象の道」の撮影にも使われ、主演だったヴィヴィアン・リーがローレンス・オリヴィエと共に訪れた際の写真も飾られていた。(その後、ヴィヴィアンは病気のため降板し、エリザベス・テイラーが代役を務めた。)


見学後、現在のオーナー夫妻がお茶とクッキーでもてなして下さり、色々な話を伺うことができた。ブリーフ・ガーデンは、元々ゴムのプランテーションだった土地をべヴィスが相続し、自身の家と庭園に作り替えたそうだ。造園技術は誰に習ったわけでもなかったというべヴィスは、弟のジェフリーと同様、天性の才能に溢れた人物だったのだろう。両親からヨーロッパやアジアの様々な国の血を受け継いでいたことも、一つの要素だったかもしれない。商売上手な面もあり、イギリス留学中には王族の子息のふりをして上流階級のソサエティに溶け込み、後のビジネスの獲得につなげたらしい。

弟と同様、生涯結婚せず跡取りがいなかったべヴィスは、亡くなった際に弟子に土地を分割して与えた。そのうちの一つが、現在ブリーフ・ガーデンとして公開されている部分だ。

バワ兄弟は日本ではあまり知名度が高くないが、弟のジェフリーは「トロピカル・モダニズム」で知られ、アジアで最も影響力があった建築家の一人。兄のべヴィスのブリーフ・ガーデンにも、建築や造園を学ぶ各国の若者たちが訪れる。


オーナーは、べヴィスが残したこのブリーフ・ガーデンが将来も保護されるよう、ナショナルトラストに託すことを考えていると言っていた。

オーナー夫妻にお礼を言い、ブリーフ・ガーデンを後にした帰り道、タクシーの運転手さんが、あの気さくで温和なオーナーは、べヴィスの一番弟子だった人で、スリランカでも有名な造園家だと教えてくれた。

あの家の脇には、ブラック・リリーと呼ばれる、見たこともない花が咲いていた。一目見たときは生の花であることが信じられなかったくらい、黒い鋼で造られた完璧なコサージュのような外観を持つ。これほど不思議な花を見たことはない。

あの花が咲き続ける限り、バワの理想郷は守られていくような、そんな気がした。