2018年12月15日土曜日

ランスで藤田嗣治を見る

そんなつもりはなかったのだが、9月に見た東京での「藤田嗣治展」をきっかけに、結果として今年後半はフジタ巡りになった。

11月にパリ近郊のメゾン・アトリエ・フジタを訪れ、今回は、シャンパーニュ地方のランスへ。

フジタはフランスに帰化し、1959年にランスのノートルダム大聖堂でキリスト教の洗礼を受けた。世界遺産にも登録されたゴシックの聖堂で、フランスの歴代の王の戴冠式が行われた場所でもある。


聖堂は美しいステンドグラスで彩られ、その中にはマルク・シャガールが1971年に制作したものもある。

話をフジタに戻すと、シャンパン・メゾンのMummの向かいに、有名な「フジタ礼拝堂」がある。フジタ自身が設計した礼拝堂の中に、彼が80歳で描いたダイナミックなフレスコ画が保存されている。しかし、残念ながら礼拝堂は5月から9月までしか公開されていないため、今回は外から眺めるのみ。


フジタの没後、彼の作品や関連文書2500点近くの寄贈を受けたランス美術館には、フジタ作品だけを展示した部屋がある。美術館は近く改装が予定されており、将来は更にスペースを広げた240平米のフジタルームがオープンする。


この常設展示に含まれないコレクションを披露する形で、ランス美術館は二つのフジタの企画展を開催している。いずれもフランスで展開されている「ジャポニスム2018」、及びフジタの没後50周年企画の一環。ひとつは「Regard sur... Foujita L'elegance du trait」(2019年2月11日まで)。「描線のエレガンス」と名付けれられたこの展示は、「La Rivière enchantée」という1951年の本にフジタが寄せた挿絵を中心に構成される。フジタ自身が愛したパリの風景を描いており、フジタが挿絵を描いた本では最も貴重とされている。







もう一つは、カーネギー図書館を会場にした「Foujita, l'artist du livre(フジタ、本の芸術家)」(2019年1月12日まで)。この図書館はフジタが挿絵を描いた本をコレクションに加え続けており、上述の「La Rivière enchantée」も入手している。

ちなみにこの図書館は、あのニューヨークのカーネギーホールを建てた鉄鋼王アンドリュー・カーネギーが、第一次大戦後、ランスに寄付したもの。アールデコの装飾が美しい。


こちらでは様々な本に掲載された、それぞれ異なるスタイルのフジタの挿絵が展示され、なかなか面白い。

日本の雑誌の表紙もあった。




カーネギー図書館の展示は入場無料にも関わらず、内容も資料も充実していた。ちょっとしたおまけとして、フジタの猫(?)が作れる折り紙も、ていねいに別紙の折り方説明書と一緒に置かれていた。


もう一つ、ランスでフジタとゆかりが深いのは、前述のシャンパン・メゾン、Mumm。フジタが洗礼を受けた際、当時の社長でフジタのパトロンでもあったのルネ・ラルーがゴッドファーザーを務めた。その絆へのオマージュとして作られたのが、「RSRV ロゼ・フジタ」(写真一番右)。


今回、味わう機会はなかったが、フジタ礼拝堂のフレスコ画を見に再訪する時の楽しみに取っておく。





シャンパーニュのメゾン巡り ③Henri Giraud

シャンパーニュで最後に訪れたのは、アイ(Aÿ)村のHenri Giraud(アンリ・ジロー)。


アイ村は全ての区画がグラン・クリュに指定され、特に上質なピノ・ノワールの産地として知られる。17世紀初めから400年近い歴史を持つアンリ・ジローは、アイ村に8ヘクタールの畑を持ち、その誉れ高いピノ・ノワールと、シャルドネのみを使ってシャンパンを製造している。

セラーのツアーは事前に予約が必要。私はホテルのコンシェルジュに勧められ、予約してもらった。行きのタクシーのドライバーさんに「アンリ・ジローに行く日本人は多いな。どうして?」と聞かれ、「さあ、日本では結構知られた名前だからじゃない?」と適当な返事をしたが、実際、日本市場には力を入れているそうで、ほぼ全てのラインが輸出されている。しかし(これは後で認識したのだが)、熱狂的なファンに支持されており、日本では売り切れて入手困難な品も多い。なるほど。

アンリ・ジローはステンレスタンクを廃止し、現在は砂岩とテラコッタのタンクと、オーク樽のみを使用している。

セラ―には卵型のイタリアの砂岩のタンクが並ぶ。この形を考案したのはフランスではアンリ・ジローが最初だったそうで、今では他のメゾンも採用している。ちょっとユーモラスで愛嬌がある形が、シャンパンを上手く循環させ、いい熟成を生むそうだ。


樽は、フランス北東部のアルゴンヌ森の樹齢200年前後のオークのみを使用。


アンリ・ジローのオーク樽は、比較的短い期間で交換されるため、要らなくなった樽材のリサイクルも積極的に行われている。例えば必要としているアーティストに寄付したり、右の写真のような椅子や小物を作ったりしている。

セラーの見学の後はテイスティング。Esprit Natureと、アルゴンヌのオーク樽で長期熟成させたタイプのFût de Chêne MV 13を頂いた。出たばかりの2013年ものは日本未上陸とのことだった。


遊び心のあるテイスティングルームの奥には、Esprit Natureのラベルを思わせる木の形のオブジェが。フランス人の女性アーティストが新聞紙を編んで作ったもので、Esprit Natureの箱のデザインにも使われている。ちなみにアンリ・ジローは、板茂氏とも「Argonne」の専用ボックスでコラボレーションしている。


セラー訪問は、製造行程の見学やテイスティング以上に、各メゾンのちょっとしたこだわりや姿勢に触れるいい機会だと思う。そして、それを知って共感したシャンパンは、更に美味しく感じる!



シャンパーニュのメゾン巡り ②Michel Gonet

今回のシャンパーニュの旅では、ランスの次に、エペルネ(Epernay)を訪れた。


エペルネの「Avenue de Champagne」はまさにシャンパン・ストリート。モエ・エ・シャンドン、ペリエ・ジュエなどおなじみの大手メゾンから、日本ではあまり知られていない中小のメゾンまでが軒を連ねる。


ここではMichel Gonet(ミシェル・ゴネ)を訪問した。

ブドウ栽培も自家で行うレコルタン・マニピュランのMichel Gonetは、主にコート・デ・ブラン地区に畑を持ち、一部はグラン・クリュに指定されている。セラーはAvizeにあり、エペルネでは、元イギリス領事館の建物をテイスティングやレセプションに使っている。


19世紀初めから続くメゾンで、現在の当主のSophieさんが7代目。私がこのメゾンに興味を持ったきっかけは、彼女が自ら描いたアートボトルだった。


小さい頃から絵が得意で、美術の勉強もしたSophieさん。かつて外部のアーティストにボトルのデザインを頼んでみたが今ひとつだったので、自分で描き始めたとのこと。ファミリーでボトルに絵を描いたのは彼女が初めてだったそう。ヴィンテージ・シャンパンのボトルに直接ペイントする。顧客のオーダーに応じて何十本もまとめて描くこともある。手描きなので、それぞれが世界に一本のボトル。

そんなアーティストとしてのマインドも持つ彼女は「私は毎年違うシャンパンを作りたいのよ」と、さばさばと語った。毎年同じ味のものを作るのは、大手メゾンがすればいいこと。ブドウの出来は毎年違うし、その年の特徴があるものを作りたい、と。ただ、それを好まないお客もいるのも事実。

なるほど。シャンパン造りもアートに通じるものがある。その年の自然条件で採れたブドウというテーマを昇華させ、一つの作品に仕上げる。毎年テーマは変わり、同じ作品は二度とない。

いくつかテイスティングさせて頂いたMichel Gonetのシャンパンは、どれも特徴は違うが、安定感があった。当然だが、毎年違っても、不安定ではダメ。安定感と変化のバランスが、ダイナミックで美味しいシャンパン造りには欠かせないものなのだろう。











2018年12月14日金曜日

シャンパーニュのメゾン巡り ①G. H. Mumm

シャンパーニュ地方のランスを訪れた。(ランスはReimsと書くほうで、ルーヴル別館があるLensとは別。)シャルルドゴール空港から直行TGVで30分ちょっとでアクセスでき、シャンパーニュ旅行の入り口として、とても便利。

街の中心にあるノートルダム大聖堂は、シャガールのステンドグラスでも知られる。この時期は周りにクリスマスマーケットが出ていて、様々な露店に並んで「シャンパン・キオスク」があるのも、この地方ならでは。


今回はMummのカーヴ見学ツアーを前もって予約していた。F1のコルドンルージュのイメージが強いが、もうスポンサーからは撤退している。

まずMummのシャンパン作りについてガイドさんの説明を受ける。シャンパーニュ地方各地に畑を持つMumm。ブドウの出来は気候や畑によって毎年異なるが、Mummのような大手の場合、同じ商品は常に同じ味でなくてはならないため、前年までのリザーブワインをブレンドして味を整え、均一化する。

上に並ぶのがリザーブワインの瓶
ステンレスタンクに移行する前、1980年代に使っていたコンクリートタンクが並ぶ通路。真ん中をトレードマークの赤いリボンが貫く。タンクの中は浴室のようなタイル張りだった。


地下14mの深さにあるセラーへ降りる。水分を含みやすい石灰岩を掘って作られた通路の全長は25㎞に及び、ここで2500万本のシャンパンが熟成されている。ランスでも最も長いセラーの一つで、スタッフでも迷うことがあるため、各通路には通りの名前がついている。


ボトルを回しておりを瓶の口に集める作業は、通常のボトルは機械でできるが、マグナムなど規格外のボトルの場合は人の手で行われる。20度から60度まで、決まった角度にボトルを傾けながら、1時間に何千ものボトルを回す熟練の技。作業前には棒を使ったストレッチが必須だそう。

Mummのシャンパンの熟成期間は他社より長く、ヴィンテージ・シャンパンは5年間熟成される。今年(2018年)のブドウの出来は良く、ガイドさんによると、おそらくヴィンテージが作られるが、まだ誰にもわからないとのことだった。

製造過程にかかる人の手間と時間を考えると、シャンパンの価格が高いのも納得できる。

ひと通り見学が終わろうとした頃、一緒にツアーに参加していたオランダから来たカップルの男性が、私にスマホを渡して、写真を撮ってほしいと言った。二人の普通の記念写真を1枚とってあげたところで、彼はおもむろにポケットから小さな箱を取り出し、彼女の前にひざまずいた。私はここで、彼が私にスマホを渡した本当の意図を理解した。彼がプロポーズの言葉を述べ、驚く彼女が笑顔に変わる頃から、私はとにかくシャッターボタンを押し続けた。あのさ、私もただの観光客なんだから、いきなりこんな重要な局面の撮影任せないでよね、責任重大じゃないのよ、と思いながらも、こちらも幸せのおすそ分けをもらった気持ちになっていた。ガイドさんも「私もここで20年働いてるけど、こんなことは初めて!」と驚いていた(そりゃそうだろうと思う。)

これで、このカップルの結婚式でMummのシャンパンが振舞われることは確実だし、記念日も必ずMummでお祝いするだろう。もしかすると彼らの子供たちも、その逸話と伝統を受け継いでいくかもしれない。彼がそこまで考えて他のメゾンではなくMummをプロポーズの場に選んだのかは不明だが、結果として、素晴らしいチョイス!

最後のテイスティングでは、まず香り当てクイズから。3種類の香りをかぎ、それが何の香りかを当てる。これらはコルドンルージュの香りに含まれる要素とのことで、正解はレモン、アプリコット、そしてブリオッシュ(!)だった。こういう複雑な香りを毎年均一化するって、どれだけ大変なことかと思う。


カップルはお祝いのシャンパンのボトルを買って帰って行った。写真はちゃんと撮れていたらしい。安堵。


2018年12月10日月曜日

カンヌでの昼休みの過ごし方

様々な見本市や商談会が開催されるカンヌを仕事で訪れたことがある人は多いと思う。私もかつてはテレビ業界のマーケットで春と秋に訪れ、近年はラグジュアリー・トラベルの商談会で毎年12月ににカンヌに行く。

数年前に知って以来、カンヌを訪れた際は必ず行く場所がひとつある。クロワゼット沿いにあるLa Malmaison(マルメゾン)という美術館。


小さな美術館だが、結構面白い企画展をやっていることが多く、昼休みの1時間を使って行くようにしている。今年は「De Brauner à Giacometti et de Léger à Matta(ブローネルからジャコメッティ、そしてレジェからマッタ)」という近代アートの展示だった。

Anne Gruner Schlumbergerというコレクターの約1000点の所蔵作品から厳選した56点を展示。特に彼女が個人的に親交があったヴィクトル・ブローネルとマックス・エルンストにスペースを割いている。展覧会のタイトルにあるアルベルト・ジャコメッティ(トレードマークの彫刻ではなく、デッサン2点)、フェルナン・レジェ、ロベルト・マッタのほか、パウル・クレーやデュビュッフェなどもあり、シュルレアリスムやその周辺の時代のアーティストたちの作品を集めている。ブローネルなど、これまで見る機会がなく、Wikipediaの日本語ページがないようなアーティストの作品を発見できるいい機会でもある。

規模としては30-40分もあれば見られ、商談会の会場のパレ・デ・フェスティバルからの往復を含めても1時間で収められる。鑑賞後はそれなりの充実感もあり、昼休みの有効な使い方だと思っている。

しかしこの美術館、いつ行ってもガラガラなのだ。今年は例年になく宣伝に積極的で、クロワゼットの並木に沿ってバナーが出されていたにも関わらず、訪問時は他に誰もいなかった。

カンヌを何度も訪れていても、市内で買い物以外の観光をしたことがない人は結構多い。コートダジュールの太陽と青い海というリゾート地としてのステータスそのものがカンヌの売りなので、いわゆる観光スポットが少ないことも事実ではある。そんな場所に仕事で行ったら、昼休みくらい、テラスレストランで白ワインを飲み、まぶしい日差しの下、わざわざこのために持ってきたサングラスをかけ、新鮮なシーフードのランチでも楽しみたいと大抵の人が思って不思議はない。

とはいえ、マルメゾンがここまで見過ごされるのはちょっともったいない気がしている。カンヌに3、4日も滞在するのなら、昼休みのうち1回を使って立ち寄ってみても損は無いと思う。(マルメゾンは13時から14時はクローズするのでご注意を)。
夜は素敵なライトアップ!












2018年12月1日土曜日

エゴン・シーレとバスキア

パリのルイ・ヴィトン財団美術館で、エゴン・シーレとジャン=ミシェル・バスキアの個展を同時開催している。

どういう意図でこの二人を並べたのか不明だが、共通点は、時代のオーソドックスから逸脱していたことと、シーレが28歳、バスキアが27歳でいずれも夭逝していること。今年2018年はシーレの没後100年、そしてバスキアの没後30年に当たる。

作品数はシーレが約100点、バスキアが約120点と、大差ないのだが、バスキアの作品は一つ一つが大型なために、4フロアにもわたって展示されている。最近、日本人が123億円で落札したことばかりが話題になったドローイングもあったが、これは1981年から83年に制作された3点の「Heads」のひとつで、今回初めて一緒に展示されているということを知った。

アンディ・ウォーホルとのコラボレーションの時代を経て、ウォーホルの死後、晩年のバスキアの作品は、ヘロインの影響もあったのか、自分の内面に抱えた表現しきれないものを、テキストを多用することで表現しようとしていたような印象を受けた。

エゴン・シーレのほうは、もっとコンパクトなスペースに収まっているが、見応えは十分。1908年から亡くなるまでの10年間の作品を時系列で展示し、その「線」の変化を追う。初期はユーゲントシュティールやクリムトの影響を受けた「装飾的な線」、続く1910年からは「表現主義の実存的な線」と題され、彼が得意とした自画像など、色彩豊かで軽やかな作品が並ぶ。

第一次大戦の影が落ち始めた1912年以降、線のしなやかさが消え、フラットさが目立つようになる。

大戦中は、シーレも招集されたが前線には行かず、制作活動は細く続けることができた。そしてウィーンに戻った後、1908年の第49回分離派展には約50点の作品を出品。そこで再評価され、まさにこれからというときに、流行していたスペイン風邪にかかり、命を落としてしまう。下の写真は、遺作となった未完の作品。


これはあくまでも個人的な所感だが、二人とも同じくらい短い人生ではあったが、バスキアは終末に向かって進み、燃え尽きた感があったのに対し、シーレは、ふっと消えてしまったような印象だった。

二つの展覧会は2019年1月14日まで。




ピカソ 青とバラ色、そしてオークル

パリのオルセー美術館で開催中の「ピカソ 青とバラ色(Picasso, Blue and Rose)」という展覧会が面白い。本当は、ピカソ美術館の「Masterpieces」展を見に行くつもりだったが、オルセーの展示の評判を目にし、ウェブサイトをチェックすると、オンラインチケットの直近の枠が次々に売り切れていくのを見て、思わずこっちにした次第。


生涯で約15万点もの作品を残したピカソは、どの時代を切り取ってもそれなりの作品数の展覧会が成立するが、1900年から1906年の青色の時代とバラ色の時代にフォーカスした展示は、意外にもフランスではこれが初めてとのこと。

18歳から20代半ばにかけてのまさに多感な青年時代のピカソの作風は、わずか6年間で様々に変化する。しかし俯瞰で見ると、どこかで劇的な変化が起こるわけではなく、自然なシークエンスとしての変遷だとわかる。

1900年にパリを訪れたピカソは、ロートレック、ゴッホ、ドガなどに影響を受け、自分の作風にそれらを取り込む。そして翌年、初めてパリのヴォラール・ギャラリーで開いた個展が大成功を収め、パリのアートシーンで一躍注目されるようになった。

その直後、親友の自殺を機に、ピカソが青を多用するようになるのは良く知られた話。女性刑務所や、悲しみや痛みをテーマにした絵を様々な青色を使って描いた。ピカソによるっと青の使用は「内面から生まれたもの」だったそうだが、夜、パラフィンランプの灯りで描いた影響もあったのでは、という見方もある。

その後、恋人ができたピカソ。作風自体は大きく変わることはなかったが、モノクロームだったパレットに少しずつ色が加わり、バラ色の時代へ移行する。曲芸師や家族をモチーフにした、温かみのある絵が増える。

そしてこの後、バラ色はオークルへと変化していく。ピレネー山脈にあるスペインのゴスルという村へ旅した際、無駄を徹底的にそぎ落とし、原点回帰に集中したピカソは、パリに戻ると、再度女性の体をモチーフとし、オークルの濃淡だけで絵を組み立てることにフォーカスした。これがその後のキュビズムにつながっていくのがわかる。

6年という短い期間にも関わらず、その時代のアートと、画家の人生のストーリーが交差して見える、とても興味深い展示だった。2019年1月6日まで。






2018年11月30日金曜日

アトリエ・デ・ルミエール

今年4月にパリにオープンした話題の新スポット「アトリエ・デ・ルミエール(L'Atelier des Lumières)。


ここは、東京などでも最近増えている、いわば「没入型デジタル・アート・ミュージアム」。オープンから7か月経っても入場待ちの列ができている。平日は窓口で当日券も買えるが、土日はオンラインの事前販売のみ。このときは金曜午後の時点で土日のチケットは全て売り切れだった。

建物は19世紀に作られた鋳造所。繁栄の後、大恐慌で閉鎖され、その後ずっと放置されていたのが、5年ほど前に再発見された。当時、ボー・ド・プロヴァンスの古い石切り場を使った「カリエール・ド・ルミエール」を成功させたCulturespaces社が目をつけ、パリで同様のプロジェクトを立ち上げる場所に選んだ。




2019年1月6日までのメインのオープニング・プログラムは「グスタフ・クリムト」と「フンデルトヴァッサー」(なぜかいずれもオーストリア)。エゴン・シーレもあったし、他にもいくつかショートプログラムが挟まれる。プロヴァンスの「カリエール~」が印象派中心なので、敢えて違うテイストを持ってきているのかもしれない。

一歩中に入ると、絵に包まれる。無数のプロジェクターから壁と床一面に映像が投影され、床を見ているだけでも、ここが19世紀頃の宮殿になったり、目まぐるしく変化する空間に引き込まれていく。

一番人気のクリムトのプログラムでは、有名な「接吻」を含むクリムトワールドがダイナミックに展開する。

ちょっと意外だったのは見る人たちの「作法」。あおおかたの人が一つの場所にとどまって映像を鑑賞し、一つのシークエンスが終わると皆、拍手をして、次のプログラムまでの間に場所を移る。まるで映画か寸劇を見にきているような冷静さなのだ。

5年ほど前に訪れたプロヴァンスの「カリエール~」では、(記憶では)敷地がもっと広かったこともあり、皆、映像の中を自由に散策して楽しんでいる感じだった。イマーシヴという意味では、そちらのほうが自然だったように思う。

どちらがいいということはないし、また、仕組みにもそう違いはないはずなのだが、パリの「アトリエ・デ・ルミエール」はシアター、プロヴァンスの「カリエール・ド・ルミエール」はエクスペリエンスという表現が近いように思った。でもいずれも、大人から子供まで、幅広い層がアートを楽しめるスポットではある。

行かれる際は、オンラインで事前にチケットを買うのをお忘れなく。

2018年11月29日木曜日

イヴ・サンローラン美術館 in Paris

パリはいつ行っても美しい場所に溢れているが、中でもイヴ・サンローラン美術館は、パリらしいエレガンスと美しさを感じられる場所だと思う。

16区にあるこの建物は、1974年から2002年までサンローランがコレクションのデザインを行っていた場所。その後、ピエール・ベルジェ - イヴ・サンローラン財団の本部として、以前から小規模なアートの展示等を行っていたが、2017年10月にサンローランにフォーカスした美術館として生まれ変わった。同時期にモロッコのマラケシュにももう一軒のイヴ・サンローラン美術館がオープンしている。


美術館は、サンローランの作品とそのクリエイティビティに迫るだけでなく、今では過去のものになってしまった20世紀の「オートクチュール」の伝統と、それに付随した生活様式を紹介する役割も担う。

2019年1月27日までは「Yves Saint Laurent:  Dreams of the Orient (東洋の夢)」という企画展を開催中。サンローランが日本、中国、インドから受けたインスピレーションを反映したドレスの数々が展示されている。


ドレスの美しさもさることながら、サンローランのアート作品のようなデッサンの美しさにも目を惹かれる。


美術館にはデザイナーのアトリエも再現されている。

女性をより美しく、優雅に見せることを追究したサンローラン。そのドレスを身に付けたらどんな女性でもエレガンス溢れる振舞いになったに違いないと、サンローランの魔法を見た気がした。

2018年11月25日日曜日

メゾン・アトリエ・フジタ

今年2018年は、藤田嗣治の没後50年に当たり、日本でも回顧展が東京と京都を巡回している。それは彼が後半生を過ごしたフランスでも同じで、各地で彼の作品の展覧会が開かれている。

回顧展を見て、もしくはそうした話題に触発されて、改めて藤田作品の魅力に惹かれた人も多いと思う。そういう人には特に「メゾン・アトリエ・フジタ(Maison-Atelier Foujita)」を訪れることをお勧めしたい。いわゆる「画家のゆかりの地」はあまたあれど、画家の息吹を感じられる場所はそう多くはない。ここはまさにフジタの息吹を感じられる場所だと思う。

パリから南西に車で小一時間のVillier-le-Bacleという静かな町。ここにフジタが晩年を夫人と暮らした自宅兼アトリエがある。

メゾン・アトリエ・フジタは、画家の没後、夫人がエッソンヌ県に寄付し、現在は歴史的記念物に指定され、保存・公開されている。家の中はスタッフが案内するツアーで見学する。土日は予約不要、平日は5名以上のグループなら予約して見学が可能。案内は基本的にフランス語だが、日本語や英語のオーディオガイドも用意されている。オーディオガイドではフジタが晩年に録音した肉声も聞ける。

18世紀に建てられた小さな3階建ての家は、フジタと夫人が暮らしていたそのままに残っており、庭にはフジタが植えた木も生き生きとしている。シンプルながら几帳面に整えられた室内には、フジタの生活に対するこだわりと、アーティストとしての遊び心が反映されている。

1階はキッチンとダイニング。キッチンには60年代っぽいレトロな道具が整然と並び、壁のタイルはフジタ自身が絵を描いたもので補修されている。



庭を見下ろす2階には寝室とリビング。小ぶりなベッドと、その横に掛かったベストとシャツに、フジタは小柄な人だったのだと想像する。

暖炉の脇の飾り棚に置かれたレコードプレーヤーには、美空ひばりのLPがかかっていた。とてもフランス的な空間に時折覗く日本。

そしていよいよ3階のアトリエへ。

まるでついさっきまで仕事をしていた画家が、ちょっと席を外しているだけのようで、50年も経過しているとは思えない。無造作に置かれたペンや道具の傾きひとつをとっても、フジタが置いたそのままであるかのようだ。ほこりをかぶらないようよくメンテナンスされているのもわかる。そのお蔭もあり、ここは過去の場所ではなく、今も進行形であるかのような空気がある。


奥の壁一面には、フジタがカトリックの洗礼を受けたシャンパーニュ地方のランスで、1965年から66年にかけて制作したノートルダム・ド・ラペ礼拝堂の壁画の下絵。当時80歳近かったフジタの最晩年の作品の一つで、下絵と言ってもその緻密さと迫力は下絵の域を超えている。周りに置かれた使いかけのパレットなどの道具に、ここに立って制作をしていたフジタの姿がイメージできる。ランスの礼拝堂は4月から9月までしか開いていないが、ここでは一年中、この絵を間近で見られる。


アトリエの片隅には、フジタが描いた落書き(?)が。
この家は18世紀に建てられ、フジタ夫妻が1960年10月14日から所有者になったことがイラストとともに記されている。

パリに戻る前に、メゾン・アトリエ・フジタから車で10分くらいのChateau du Val-Fleuryへ。ここでも小規模だがフジタの展覧会があった。

 「Foujita Moderne」と題されたこの企画では、フジタの大型の作品と、エッソンヌ県の現代アートコレクションを一緒に展示している。



フジタワールドに浸ることができたショートトリップだった。