2024年12月31日火曜日

ヴァチカン美術館

世界最大級。20以上の美術館から構成され、全長7㎞とされるヴァチカン美術館。

全部見るのは無理と割り切り、システィーナ礼拝堂に的を絞る。ヴァチカン美術館は待たずに入場するには事前予約が必須で、システィーナ礼拝堂だけのチケットはなく、必ず美術館とセットになっている。入場時間枠だけの予約もあるが、巨大な美術館のポイントを押さえつつ、システィーナ礼拝堂まで確実に連れて行ってもらえるツアーを予約した。これは正解だったし、お勧めする。

見学を始める前に、ガイドさんが映像を使ってシスティーナ礼拝堂の見どころを説明してくれる。システィーナ礼拝堂は自由見学なので、その時のために頭に入れる。

ツアーは人混みを縫いながらハイペースで進む。古代彫刻が並ぶ回廊を抜け、絢爛な天井画や壁画、床モザイクなどに、ここはそもそもただの美術館ではなく、教皇が暮らす宮殿だということを思い出す。ツアー中はじっくり見ている時間はないが、急かされるくらいのペースでないといちいち天井画に見入ってしまったりして、システィーナ礼拝堂にたどり着けない。(見たい人は後で戻って見学できる。)





見過ごしてしまいそうなごく普通の天井絵も、ガイドさんの指摘で見てみると、絵の具で写生をしている人たちの下にカメラを持った天使がいる。


絵のメッセージはよくわからないが、きっと19世紀頃の、カメラが登場した最初の絵だろうか。こういうディテールが発見できるのもガイドツアーの良さ。

ヴァチカン美術館で見逃せないものの一つは「ラファエロの間」と呼ばれる、教皇の私室だった4つの部屋。そのうちラファエロが描いたのは2番目の「ヘリオドロスの間」と3番目の「署名の間」の2部屋。それ以外は弟子の手による。



最も知られた「アテナイの学堂」は署名の間にある。


ガイドさんが教えてくれたエピソードが面白い。まだ20代だったラファエロがこの絵を描いていたのと同時期に、システィーナ礼拝堂ではミケランジェロが天井画を描いていた。ミケランジェロは制作の様子を人に見せなかったが、こっそり見たラファエロはそのあまりのレベルの高さに衝撃を受け、「アテナイの学堂」にミケランジェロを描き加えて敬意を表した、という話。手前でひじをついて座っているのがミケランジェロ。


ツアーはシスティーナ礼拝堂の手前で終了。2時間近いツアーも気づいたらあっという間だった。

システィーナ礼拝堂には、ミケランジェロが4年かけた天井画と、6年かけた祭壇画「最後の審判」がある。前者はミケランジェロ30代のときの、後者は60代から70代のときの作品。

いずれも彫刻のような人体描写が特徴。9枚の天井画は、天地創造の物語の進行と逆の、入口から遠いほうから描き始めたそうで、手前に来るほどその表現力が高まっているらしい。1541年から47年にかけて制作された「最後の審判」は更に誇張された表現で、400人以上の人物が描かれている。キリストの右下で自分の生皮を持っている人物がいるが、その生皮がミケランジェロの自画像とのことだった。

礼拝堂内は撮影禁止なのでしばし留まり、自分の目でじっくり見る。絵が迫ってくるようだった。

ミケランジェロは「最後の審判」の後、同じくヴァチカンのサンピエトロ大聖堂の円蓋の設計も任され、彼の死後、構想通りに完成した。


ヴァチカン美術館の収蔵品は古代から現代に及ぶけれど、中でも500年前、まさに芸術が花開いていたルネサンス時代の圧倒的な勢いとパワーを感じずにはいられない場所だった。


2024年12月28日土曜日

ふらり、カラヴァッジョを見る

 「永遠の都」と呼ばれるローマ。

空港からホテルに向かう車から眺めているだけでも、古代遺跡らしきものが続々と目に入ってくる。歴史のスケールの違いに、即座に「参りました」と思う。こんな都市は1日や2日で見尽くせるものではない。

が、1日や2日しか時間がなかった私は、カラヴァッジョのある教会へ行くことに。

まずサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(San Luigi dei Francesi)へ。ローマ在住フランス人の国民教会とのことで、公式サイトもフランス語。

ここにはカラヴァッジョが1600年頃制作した「聖マタイ三部作」がある。誰でもフラッと入れる街中の教会に400年前の名作があるのが、またローマのすごいところ。日暮れ後でも見学者が途切れない。三部作は入口から見て一番左奥のコンタレッリ礼拝堂にあり、右から「聖マタイの召命」、「聖マタイと天使」、「聖マタイの殉教」と並ぶ。しかし残念ながら、3作のうち最も有名でバロック美術の先駆けともいわれる「聖マタイの召命」はメンテナンスのためかクローズ中。それでも「聖マタイと天使」は少し離れた正面から、「聖マタイの殉教」は斜め前から見ることができた。




 次はサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会から徒歩3分のサンタゴスティーノ教会(Basilica di Sant'Agostino in Campo Marzioへ。


ここにあるのはカラヴァッジョが1604-06年ころ制作した「ロレートの聖母」。入って左側手前のカヴァレッティ礼拝堂にある。

その奥行き、ドラマティックさ、現実感は左右の絵とは比較にならない。聖母マリアが裸足であることなどから不敬だと言われ、カラヴァッジョは投獄されたそうだが、当時の人びとにとって、不敬かどうかより新しすぎる作風そのものに受けた衝撃がずっと大きかっただろうと思う。

見ているうちに照明が消えた。あ、そうか。「お布施」の1ユーロコインを入れると絵を照らす照明がつく仕組みだった。先に誰かがお布施を入れていたのだ。しかしキャッシュレス化が進み、海外旅行でも現金を全く使わずに済んでしまうこともある昨今、私は小銭を用意していなかった。もう少し見ていたかったけれどあきらめる。ここもバーコード決済導入してくれないかしら(それも世知辛いけど)。


バロックついでにもう一か所。ボッロミーニのサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂(Chiesa di San Carlino alle Quattro Fontane)。ここは外観のみ見学。バロック建築の代表的作品と言われ、波打つようなファサードの曲線美が特徴。


それが街並みになじんでいるところも、またローマ。


永遠の都には、どんな時代もサラッと現存している。


2024年12月16日月曜日

ジョルジュ・デ・キリコ 邸宅美術館

今年(2024年)東京で開催された「デ・キリコ展」を見た。

それまでデ・キリコの作品はまとめて見たことがなく、「シュルレアリスムのイタリア人」くらいの認識だった。でも東京での回顧展を見て、彼のトレードマークともいえる「形而上絵画」はシュルレアリスムより前にあったことや、ポップアートが生まれる前にポップアートを思わせる作品を描いていたこと、日本のマンガが世界で知られるより前にマンガのようなタッチの作品を描いていたことなどを知った。サラッと時代を先取りしていたデ・キリコは一体何者だったのか、興味を持った。

ということで、先日ローマを訪れた際、「ジョルジュ・デ・キリコ邸宅美術館」に行ってみた。デ・キリコが1978年に90歳で亡くなるまで30年間暮らしたアパートメントで、スペイン広場のすぐそばにある。ギリシャで生まれたデ・キリコは、ミラノ、フィレンツェ、ミュンヘン、パリなどあちこちに住んだが、ローマが最も長い。だからローマの人にとってデ・キリコは「地元のアーティスト」なのだろう。数十年前、ローマを初めて訪れた際に入ったレストランで、お土産にデ・キリコの絵の小さなポスターをもらったのを思い出した(レストランがどんな店だったかはさっぱり覚えていない)。

美術館は完全予約制。建物の入り口には小さな看板があるだけで、知らなければ気付かない。中に入るとロビーにデ・キリコの大きな彫刻があるが、美術館がある4階に上がるとドアが閉ざされていて、特に看板も呼び鈴もない。やや不安になりながらドアをコンコンとたたくと、中から案内役の人が開けてくれた。

ツアーではデ・キリコが住んでいた3フロアのうち2フロアを見学。彼が住んでいたままの内装の部屋に、数多くの絵画や彫刻作品が展示されている。

メインフロアの最初の部屋には、第一次大戦後に古典に傾倒した時代の作品や肖像画が展示されている。


妻のイザベラはデ・キリコのマネージャー的な役割も担っていたそうで、ここをデ・キリコ没後20年の1998年に邸宅美術館として公開するよう遺言を残したのも彼女だった。



デ・キリコが使っていたソニー製のブラウン管テレビも、彼が好きだったPunt e Mesというヴェルモットの瓶も展示の一部。


次の部屋には静物画や馬の絵が並ぶ。彼は馬は必ず2頭描いた。デ・キリコと、彼の理解者だった弟を表している。

一番奥の大広間は1960年代に拡張された部分。ローマの一等地にある贅沢な空間は、客人が集う華やかな社交の場でもあった。ここにはデ・キリコが晩年に回帰した「新形而上絵画」が主に展示されている。形而上絵画をリピートしたことは商業的だとの批判もあったようだが、それがデ・キリコのアイデンティティとして今日まで認識されているのだから、人生の締めくくりの作品のあり方としては間違ってはいないと思う。

人間の感覚についてのデ・キリコの考え方も興味深い。彼が描いたマヌカンに目がないのは、目が見えない人は未来を見る能力がある予言者だと捉えていたからだそうだ。また、お腹には脳と同じ働きがある思っていたというのも、「腸は第二の脳」と言われる現代の考え方と似ている。


上のフロアはアトリエと寝室。デ・キリコの寝室は簡素で、シングルベッドがあるだけの小さな部屋。夫人の寝室は?と聞くと、華やかなカバーがかかったダブルベッドがある広い部屋が別にあった(!)。でも決して夫婦仲が悪かったとか、夫人が仕切っていたとか、そういうことではないようなので、きっと夜遅くまで制作に没頭したデ・キリコが夫人を起こさないよう、寝室を別にしていたのだろうと、平和な解釈をした。

アトリエは、アーティストがちょっと席を外しているだけのような雰囲気のまま残されている。実際はデ・キリコが亡くなってから美術館開館までに20年あったので、ほんとにそのままだったわけではなく、イーゼルにかかっている絵も絶筆のものではない。それでも彼が使っていた絵具や、額縁のコレクション、資料が並ぶ本棚などを見ると、アーティストの内面を少しだけ覗けたような気になる。本棚には「日本の凧」という日本語の本もあった。調べたら1970年の出版。彼の晩年の作品のどこかに凧が隠れているだろうか。



邸宅美術館はデ・キリコ財団が管理・運営し、その600点以上のコレクションから世界中の展覧会に作品が貸し出されるので、展示作品も少しずつ変わる。お宅拝見だけでなくキュレーションされた展示も見られる、バランスが取れた面白い美術館だった。