今年(2024年)東京で開催された「デ・キリコ展」を見た。
それまでデ・キリコの作品はまとめて見たことがなく、「シュルレアリスムのイタリア人」くらいの認識だった。でも東京での回顧展を見て、彼のトレードマークともいえる「形而上絵画」はシュルレアリスムより前にあったことや、ポップアートが生まれる前にポップアートを思わせる作品を描いていたこと、日本のマンガが世界で知られるより前にマンガのようなタッチの作品を描いていたことなどを知った。サラッと時代を先取りしていたデ・キリコは一体何者だったのか、興味を持った。
ということで、先日ローマを訪れた際、「ジョルジュ・デ・キリコ邸宅美術館」に行ってみた。デ・キリコが1978年に90歳で亡くなるまで30年間暮らしたアパートメントで、スペイン広場のすぐそばにある。ギリシャで生まれたデ・キリコは、ミラノ、フィレンツェ、ミュンヘン、パリなどあちこちに住んだが、ローマが最も長い。だからローマの人にとってデ・キリコは「地元のアーティスト」なのだろう。数十年前、ローマを初めて訪れた際に入ったレストランで、お土産にデ・キリコの絵の小さなポスターをもらったのを思い出した(レストランがどんな店だったかはさっぱり覚えていない)。
美術館は完全予約制。建物の入り口には小さな看板があるだけで、知らなければ気付かない。中に入るとロビーにデ・キリコの大きな彫刻があるが、美術館がある4階に上がるとドアが閉ざされていて、特に看板も呼び鈴もない。やや不安になりながらドアをコンコンとたたくと、中から案内役の人が開けてくれた。
ツアーではデ・キリコが住んでいた3フロアのうち2フロアを見学。彼が住んでいたままの内装の部屋に、数多くの絵画や彫刻作品が展示されている。
メインフロアの最初の部屋には、第一次大戦後に古典に傾倒した時代の作品や肖像画が展示されている。
妻のイザベラはデ・キリコのマネージャー的な役割も担っていたそうで、ここをデ・キリコ没後20年の1998年に邸宅美術館として公開するよう遺言を残したのも彼女だった。
デ・キリコが使っていたソニー製のブラウン管テレビも、彼が好きだったPunt e Mesというヴェルモットの瓶も展示の一部。
次の部屋には静物画や馬の絵が並ぶ。彼は馬は必ず2頭描いた。デ・キリコと、彼の理解者だった弟を表している。
一番奥の大広間は1960年代に拡張された部分。ローマの一等地にある贅沢な空間は、客人が集う華やかな社交の場でもあった。ここにはデ・キリコが晩年に回帰した「新形而上絵画」が主に展示されている。形而上絵画をリピートしたことは商業的だとの批判もあったようだが、それがデ・キリコのアイデンティティとして今日まで認識されているのだから、人生の締めくくりの作品のあり方としては間違ってはいないと思う。
人間の感覚についてのデ・キリコの考え方も興味深い。彼が描いたマヌカンに目がないのは、目が見えない人は未来を見る能力がある予言者だと捉えていたからだそうだ。また、お腹には脳と同じ働きがある思っていたというのも、「腸は第二の脳」と言われる現代の考え方と似ている。
上のフロアはアトリエと寝室。デ・キリコの寝室は簡素で、シングルベッドがあるだけの小さな部屋。夫人の寝室は?と聞くと、華やかなカバーがかかったダブルベッドがある広い部屋が別にあった(!)。でも決して夫婦仲が悪かったとか、夫人が仕切っていたとか、そういうことではないようなので、きっと夜遅くまで制作に没頭したデ・キリコが夫人を起こさないよう、寝室を別にしていたのだろうと、平和な解釈をした。
アトリエは、アーティストがちょっと席を外しているだけのような雰囲気のまま残されている。実際はデ・キリコが亡くなってから美術館開館までに20年あったので、ほんとにそのままだったわけではなく、イーゼルにかかっている絵も絶筆のものではない。それでも彼が使っていた絵具や、額縁のコレクション、資料が並ぶ本棚などを見ると、アーティストの内面を少しだけ覗けたような気になる。本棚には「日本の凧」という日本語の本もあった。調べたら1970年の出版。彼の晩年の作品のどこかに凧が隠れているだろうか。
邸宅美術館はデ・キリコ財団が管理・運営し、その600点以上のコレクションから世界中の展覧会に作品が貸し出されるので、展示作品も少しずつ変わる。お宅拝見だけでなくキュレーションされた展示も見られる、バランスが取れた面白い美術館だった。